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ジャッキー・チェン
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空母キティホークの甲板にて(2002年
繁体字 成龍
Sing4 Lung4
出生名 陳港生(家系図上での本名は房仕龍)
祖籍 安徽省和県
出生 1954年4月7日(63歳)
Flag of Hong Kong 1959 香港ヴィクトリア・ピーク
別名 陳元龍、元樓
英語名 Jackie Chan
職業 俳優
ジャンル 映画俳優監督製作)、歌手
活動期間 1962年 - 現在
配偶者 ジョアン・リン1982年 - )
子供 ジェイシー・チャン
公式サイト http://www.jackiechan.com/

ジャッキー・チェン成龍テンプレート:繁体字広東語発音:シン・ルン、1954年4月7日 - )は、香港出身の映画俳優。身長174cm血液型はAB型。

京劇中国武術で鍛えた身体能力を活かして、それまで暗い復讐劇が多かったカンフー・アクション映画の世界に、ハロルド・ロイドバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主演。50歳を越えた現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。

妻は、台湾の元女優ジョアン・リン。息子は同じく俳優のジェイシー・チャン。初主演作『花都大戦/ツインズ・エフェクト2』でジェイシーと親子共演を果たした。

経歴 編集

幼少期・香港時代とブルース・リー 編集

ジャッキー・チェンは、1954年に香港ヴィクトリア・ピークにて「陳港生」として生まれた。父親は陳志平(チャールズ・チャン、家系図上では房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)[1]。陳志平は、国共内戦を避け、中国大陸から香港に逃れた。

7歳から約10年間、中国戯劇学院にて京劇を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた。

彼の生い立ちは、メイベル・チャン監督の『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2002年)に詳しく、ジャッキー本人も知らない兄弟の存在など複雑な家庭環境を持ったことが紹介されている。また、この作品においてジャッキーの本名は陳港生ではなく、房仕龍であると明かされている。

彼の青春時代を描いた、メイベル・チャン製作総指揮・脚本、アレックス・ロー監督、サモ・ハン・キンポー主演の『七小福』(1989年)では、厳しい京劇の学校での生活と、香港映画界へと進むまで姿が描かれている(ただしジャッキー本人は出演していない)。

無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでブルース・リーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではブルース・リーに首を折られるエキストラ役としても出演した。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いたが、1976年にブルース・リー作品の監督であるロー・ウェイの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイ・プロと専属契約し再デビューを果たし、1979年にゴールデン・ハーベスト社に移籍した。

当時の香港映画界は、ブルース・リーの死によって低迷期にあり、ブルース・リーのそっくりさんを使った作品や、クオリティの低い二番煎じ的なカンフー映画が乱発されていた。ジャッキーも、初期作品ではブルースの後継者として期待され、復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが、大成功には至らなかった。そうした反省も踏まえ、ジャッキーは制作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。これが『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)といったヒット作の誕生につながった。また、自ら命懸けのスタントをこなす姿勢も評価され、人気を得ていった。

一時期、批評家からの声に刺激され文芸路線(「奇蹟/ミラクル」など)を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。

ハリウッド進出 編集

元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』、『キャノンボール』、『プロテクター』など米国作品に主演・出演してきたが、評価は高まらなかった。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。

そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築いた。このラッシュアワーシリーズの続編『ラッシュアワー2』は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後『シャンハイ・ヌーン』『タキシード』『シャンハイ・ナイト』『80デイズ』など、立て続けにアメリカ映画作品に主演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。

だが地元香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りで、『タキシード』『シャンハイ・ナイト』『メダリオン』などは、ジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった[2]

2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなった。また、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。

日本での大ブレイク 編集

1970年代、ブルース・リー・ブームにより、千葉真一志穂美悦子倉田保昭らによる、映画やTVシリーズが爆発的人気だった。特に東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心で、1979年に『トラック野郎』との2本立てで公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』『クレージーモンキー 笑拳』『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』『龍拳』『蛇鶴八拳』『カンニング・モンキー 天中拳』『成龍拳』『ジャッキー・チェンの醒拳』が公開され話題を集めた。なお当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。

その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した。(1990年代頃までの過去の作品はジャッキーの肉声ではなく、別の役者によって吹替えられている。これはジャッキー作品特有のものではなく、当時の香港映画界では、声優の職場確保のため、また北京語以外は輸入映画扱いとなっていたため、広東語主体の劇映画は撮影時に音声の録音をせず、後からプロの声優によって北京語・広東語・英語音声の音源が作られるというシステムになっていたことによる。最近は、ジャッキーも含め、出演者本人の台詞を録音して使うことが主流となっている)。また過去の作品をアメリカで公開する際はジャッキー自身の英語セリフにより新録音され、音楽もリニューアルされることが多い(「酔拳2」、「レッド・ブロンクス」、「ファイナル・プロジェクト」など)。

1980年代から1990年代にかけて、ファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「不死鳥成龍会」「MIRACLES」「無問題倶楽部」「チャイニーズドラゴン」などが存在し、それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影等)で訪れた際は、喜んで対応してくれていた。

1980年代には、『月刊コロコロコミック』にて、ジャッキーをパロディー化したキャラクター「ジャッキーちゃん」が主人公のギャグ漫画「あほ拳ジャッキー」(作・ぜんきよし)が連載された。ちなみに同作品にはブルース・リーやジェット・リーのパロディーキャラも登場している。またジャッキー・チェンのパロディキャラといえば『ハイスクール!奇面組』にも若気市猿(じゃきいち・えん)という一回性のキャラクターが登場する。

またゲームソフトにも多数登場している。ジャッキー関連の初のゲーム化は1984年にアーケードゲームで登場した『スパルタンX (ゲーム)』であるが、ゲーム自体は映画の内容とは関連性はなかった。しかし1985年に発売された、ファミコン用ソフトの『スパルタンX』のパッケージの絵はジャッキー似のキャラとなっている。

1991年には、PCエンジンとファミコン用ソフトの「ジャッキーチェン」がハドソンから発売された。このゲームの発売当時のゲーム雑誌インタビューでは、ジャッキー自身のアイディアも一部ゲーム中に取り入れられているとコメントしている。

1995年、日本のゲームメーカー、カネコが製作したアーケード用対戦型格闘ゲーム「カンフーマスター ジャッキー・チェン」に出演。このゲームのキャラクターはグラフィック画ではなく、実際の俳優を撮影し、画像を録り込んで使用していることから、ジャッキー本人がゲーム画面のキャプチャ撮影を行った。なおこのゲームにおいてジャッキーはプレイヤーキャラクターではなく、なんと最終ボスとして登場する敵役である。登場する服装は数パターンあり、クンフーの稽古着や『プロジェクトA』内で着装した警察の正装で戦う。ちなみに続編では晴れてプレイヤーキャラとなった。

2005年には、家庭用体感ゲームの事業にも参加している。同年秋にゲーム事業のイベントで訪日した際には、関係者から『スパルタンX』がゲーム化されていることを初めて聞き、無言で手を差し出す(権利料を払え、の意)という行為を行い、場が凍りつくハプニングがあった。直後にジャッキーは満面の笑みでジョークであることをアピールし、事無きを得た。

2006年西陣よりパチンコ機「CRジャッキー・チェン」、2007年には藤商事により「CRプロジェクトA」が製作された。

訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。近年では、日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたり様々なゲームで対決をしている。

芸能人の中にジャッキーのファンも多く、映画やTVのバラエティ番組で、内村光良武田鉄矢山本高広長井秀和岡村隆史陣内智則らにモノマネされたことがある。

内村光良は、2004年の映画「恋人はスナイパー」の中で、「フー・アム・アイ?」のラストのビル屋上での死闘のパロディを中村獅童と演じた。また1990年頃の自身の番組で「ウッチー・チェン」と言うキャラを演じ、ジャッキー映画の名場面を再現し危険なスタントも内村自身が演じ、それを観たジャッキー本人も絶賛していた。また1992年の映画「七人のおたく」でもジャッキーを真似たキャラを演じている。また自身の番組にジャッキーをゲストに招くことも多く、毎回いろんな企画(リング上でのカンフー対決など)をやっている。内村いわく「ジャッキーは俺の番組の年一のレギュラー!!」との事である。

武田鉄矢は、一時期ジャッキーの髪型を真似る程の自他共に認めるジャッキー・ファンとして有名だが、1980年代に映画「刑事物語」シリーズを5本製作しジャッキーとの共演を熱望していたらしいが、ギャラの折り合いがつかず断念したという話がある。「刑事物語3・潮騒の詩」のオープニングのビルからの落下は「プロジェクトA」でジャッキーが時計台から落下する場面のパロディで、またラストのヒットマンとの野原での対決は「ヤングマスター 師弟出馬」のラストの死闘のパロディである。武田いわく「この役はジャッキー・チェンへのオマージュなんです」との事である。

2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。なお2008年4月に発売された、PS3用ソフト「プロ野球スピリッツ5」において東京ドームでプレイした際、外野後方にあるオロナミンCの看板に、ジャッキーが写っている。

声優の石丸博也はジャッキーのほとんどの作品で吹き替えを担当しているほか、ジャッキー関連のアニメやドキュメンタリーでも声を担当。ジャッキーも石丸に対し「これからも僕の声をよろしくお願いします。今度あなたが香港映画に出る時は僕があなたの声を吹き替えます(笑」と親しみを込め語っている。 2010年11月13日放送の『めざましどようび』には石丸が電話出演し、当日公開のジャッキー最新作『ラスト・ソルジャー』のPRを行った。なお石丸とジャッキーの初対面は、1982年4月放送の『スネーキーモンキー 蛇拳』のアフレコスタジオである(ちょうど新作『ドラゴンロード』のPRで来日しており、ジャッキーが石丸を表敬訪問)。また1984年8月放送の『夜のヒットスタジオ』にジャッキーが歌手として出演した時は、石丸がジャッキーの応援で出演し、当月公開の新作『五福星』の1シーンをジャッキーの前で吹き替えした。

2010年11月15日放送の『SMAP×SMAP』で『芸能界ジャッキー・チェン王決定戦』が行われ、我こそはジャッキー・マニア代表だと豪語する香取慎吾中川翔子ドランクドラゴンの塚地武雅スキマスイッチの大橋卓弥中川家の礼二有村昆がジャッキーのサイン入りお宝グッズを巡ってクイズで勝負をした。ジャッキーもVTR出演し、またコーナー・ゲストの木村拓哉稲垣吾郎もボケ担当として笑いを誘っていた。ただクイズで優勝を競うと言うより、それぞれがお宝グッズを公開したり自慢話をしたり、ジャッキー映画の名場面を観ながら全員で盛り上がるといった内容であった。

2011年は、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれる予定。 このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。

その他の活動 編集

俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌はロックレコード李宗盛から学んだ。

1980年代には彼自身が無名時代からファンで、後に親友の間柄になった西城秀樹と共に東洋の2大スーパースターと称された。1987年の琵琶湖コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」などを一緒に熱唱した。

陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏でよく知られ、今でもデュエット・ソングとして人気がある。

1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。

日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤング・マスター師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。

ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(チャイナブルー、東京サタデーナイト)を本人が歌った。「東京サタデーナイト」に関してはジャッキーもかなりのお気に入りらしく、最近の公の場でも口ずさむ時がある。

現在、香港政府観光局観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行っている。

韓国でも大変人気が高く、本人もたびたび韓国を訪れている。そのため韓国語も流暢に話すことができる。

2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。

今後の活動 編集

2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループ(英皇娯楽集団)と提携して、自らの映画制作会社、成龍英皇影業有限公司(JCE Movies Limited)を設立した。

以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、最近の発言でも「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。近年は、事あるごとに引退を示唆する発言をしている。   

2011年、ジャッキー・チェン出演作100本目記念作品として「辛亥 革命 1911」を監督主演で製作する事を発表。息子のジェイシー・チャンと共演。中国・香港で10月公開の予定。

アクション 編集

  • ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンで構成された『成家班(ジャッキーズ・アクション・チーム)』(ケネス・ロー・ワイコン、マース、ブラッドリー・ジェームズ・アラン、ロッキー・ライ、ダニー・チュウ、ベニー・ライ、タイ・ポー、ポール・ウォンなど)の仲間に支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。
  • ジャッキーはハリウッド進出を目指し『キャノンボール』(1981年)に出演したが、ジャッキー自身は端役での出演であった。しかし、この『キャノンボール』のエンディング・ロールでNGシーンを流していたことがジャッキー自身の心にとまり、『プロジェクトA』以降必ずといっていいほどジャッキー作品のエンディング・ロールにNGシーンが使われるようになった。『キャノンボール』の日本での配給収入は20億円を突破し、同年公開の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、『ロッキー3』を上まわる興行収入を記録したほか、日本以外の国々でもヒットしたが、ジャッキーの役柄がマイケル・ホイと共に“日本チーム=日本人”役であったせいか、地元・香港では受けなかった。

時計台落下シーン 編集

日本でも大ヒットした1983年作品『プロジェクトA』でのワンシーン、25mの時計台から地面に落下するアクションはまさに命懸けスタントであった。ちなみに、この時計台落下シーンは喜劇王ハロルド・ロイドの『要心無用』からヒントを得ている。ジャッキーはこのシーンのために3回時計台から落下し、全てのカットを本作で見ることができる(本編に使われたのは2つで、落下の仕方が異なっている。残る1つは落下失敗で、屋根が破れずにNG。これはエンドクレジットのNGシーンで採用。大けがを負ったのは最初のテイクで頭から地面に落ちたこのカットは非常に衝撃的で有名なものとなった)。

人物 編集

エピソード 編集

  • 名前の陳港生は、香港生まれという意味。出生時の体重は5680グラムもあり、母親のお腹の中に12か月程度いたとされる。
  • 家系図上での名は房仕龍とされており、唐代の宰相房玄齢の子孫だと自称している。
  • 英語名を日本欧米での芸名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、日本のみ諸事情(相手を呼ぶ際の「・・・ちゃん」と被るため)により「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。だが息子は「ジェイシー・チャン」になっている。
  • 愛称は「大哥」(タイコー、大兄貴の意)[3]
  • 1994年読字障害であることを告白したが、現在は克服している。広東語北京語英語韓国語に堪能で、日本語も少し話せる。
  • 無名時代のある日のこと、ジャッキーが休日に一人でボウリングに行こうと道を歩いていると、前から偶然ブルース・リーと遭遇。二人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、ブルース・リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで……」と言い残しすぐに帰って行ったということがあった。また撮影の合間には、彼の作品でスタントを演じていたジャッキーに対して、特に優しく接してくれてたらしい。
  • 『七小福』時代からの仲間であるサモ・ハン・キンポーに反発を抱いていた。両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション、特に美しさに対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより仲があまり良くなかったようだが、『プロジェクトA』ではユン・ピョウの計らいにより関係修復し共演が実現した。互いの監督作品にも出演し、1983年から1988年に多くの共演作品が日本でも公開された。監督作品は、ジャッキー監督は『プロジェクトA』、サモ・ハン監督は『五福星』『スパルタンX』『大福星』『七福星』『サイクロンZ』。その後、空白期間を迎えるが、1995年の『デッド・ヒート』と1997年の『ナイスガイ』で再タッグを組み、現在では、香港電影金像奨での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復している。
  • 『酔拳』(1978年)撮影時に、顔が赤くなっているのはメイクではなく、撮影前に逆立ちし、頭に血をのぼらせて撮っていた。
  • ヘリコプターを使ったアクションとして『ポリス・ストーリー3』(1992)と『ファイナル・プロジェクト』(1996)が有名だが、『ポリス・ストーリー3』の時は機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我し、また『ファイナル・プロジェクト』ではプロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2㎝)し間一髪大怪我を免れている。その後ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションはやらなくなったらしい。
  • 「自身の作品で一番好きなのは?」の問いに対し、「アクションなら『ポリス・ストーリー/香港国際警察』、監督なら『奇蹟/ミラクル』」と答えている。
  • トム・クルーズジョニー・デップと並び、ジャッキーがファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接してくれている。 
  • ジャッキーは千葉真一の大ファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった[4]テレビドラマキイハンター』でスタントマンに頼らず、千葉自身が演ずるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に東映京都撮影所へ千葉を表敬訪問している[4]。また、日活のアクション俳優「小林旭」の熱狂的ファンで、日本で初対面の際に「Oh、My Idol !!」と叫び、小林に抱きついたエピソードを小林自身がNHKラジオの番組で「あの時は嬉しかった!!」と語っていた。
  • シャンハイ・ヌーン』では馬術アクションを披露。数々のアクションを自らこなしてきたものの、当時は乗馬が初めてであり、手なづけることに非常に苦労を重ねていた。
  • ラッシュアワー2』撮影時に、チャン・ツィイーは英語が話せず、ジャッキーに通訳してもらいつつ撮影に臨んだ。彼女は英語の必要性を痛感し、後に勉強を始めて約2年間で習得した。
  • 自身がプロデュースした作品には1シーンのみのカメオ出演をする場合が多い(1986年「クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド」、 1999年「ジェネックス・コップ」、2004年「エンター・ザ・フェニックス」など)。
  • 2003年、『80デイズ』の撮影のためにベルリンに滞在した時、バディーベアに出会い、翌2004年に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、ユニセフと2つの恵まれない子供たちのための団体が414万香港ドル(約5700万円)を手にした。
  • 2011年1月20日アメリカホワイトハウスで行われた公式訪問中の胡錦濤国家主席を歓迎する「オバマ米大統領夫妻主催の晩餐会」にジャッキーも政財界の大物や著名人など計225人の招待客と共に出席し、ジャッキーと対面したオバマ米大統領は握手しながら、「私も君のファンだよ」と話しかけたばかりか、ヒラリー・クリントン国務長官も、夫のビル・クリントン元米大統領もジャッキーのファンだと話した。 また胡主席とも話す機会に恵まれ、ちょうどジャッキーと胡主席が話し始めようとかという時にオバマ米大統領がやってきて、「知っていますか。アメリカでジャッキーはとてもとても有名なんですよ」と話しかけた。すると胡主席は「中国ではもっと有名ですよ」と笑顔で返答した。この公式晩餐会を振り返ったジャッキーは、「本当に光栄に思う」と興奮ぎみにメディアに語った。

トラブル 編集

ジャッキー・ジャック事件 編集

ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐しており、その内容を以下に要約する。

1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』や続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットし、ジャッキーとウィリー・チェン(マネージャー)は、ローがレンタル出向前に製作し完成してた『拳精』と『龍拳』を配給会社が警戒して(過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗してた為)買わなくなってた事もあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう(『醒拳』は結果的に、ローが1983年にそっくりさんと『笑拳』のNGフィルムなどを使用し無理やり完成させ、ジャッキー最新作として公開したため、ジャッキーは裁判沙汰にしようと考えるくらい激怒した)。

ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、「三合会」と呼ばれる当時の香港芸能マフィアを利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。三合会はジャッキーを拉致してローの面前へ引き出し、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも三合会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても三合会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な三合会の件は、黒社会との繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは三合会に狙われることはなくなり、ローもまた三合会と手を切ることができた。これにてジャッキーは事無きを得ている。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』『炎の大捜査線』に準主演級で出演しており、これらの作品にノーギャラで出演したことについてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。

この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本においては、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及しているが、この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」といった内容となっている。また当時、日本の旅行会社がジャッキーに会うためのツアーを企画したが、1979年末に『ヤングマスター師弟出馬』完成後、極秘にゴールデン・ハーベスト社が次回作『バトルクリーク・ブロー』(ジャッキー初のハリウッド作品)の撮影のためにジャッキーをアメリカへ逃がした後だったので会えなかった。

なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会(マフィア)追放キャンペーンでは陣頭に立っている。 その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と語っていた。

台湾に関する発言 編集

ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智行政院新聞局局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』(台北市1014万台湾元)、『THE MYTH/神話』(台北市1100万台湾元)『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(台北市900万台湾元))。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。

その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。

その他 編集

  • 2006年7月10日、ジョナサン・リー(李宗盛)のコンサートに特別ゲストとして出演、しかし泥酔したジャッキーは彼とデュエットを要求。野次を飛ばす観客に腹を立てたジャッキーは観客の前で暴言を吐いた[5]。この様子がファンの持っていた携帯電話で撮影され動画がインターネットに流出した。
  • 2007年4月、スタントマンのブルース・ローが自身のブログで、「過去にジャッキー・チェンのスタントを務めた」ということを語ってネット上で論議を呼んだ[6]
  • チベットに弾圧を行う中国に対して世界規模で抗議がある中、北京五輪に反対することは不公平であるとした[7]
  • 2009年4月18日、海南島で行われたボアオ・アジア・フォーラムの会見上で、中国国外メディアから文化活動の自由について聞かれ、「自由すぎると、香港のように混乱する。台湾も混乱している。中国人は管理される必要があるとだんだんと思うようになってきた」[8]。「テレビ日本製を買う。中国製のテレビは爆発するかもしれない」と発言し物議をかもした。またインターネット上などでは「台湾、香港の人々を侮辱している」などの反発が相次いだ[9]

編集

  • 2006年の日本のテレビ番組SMAP×SMAP』では、中華料理をよく食べるわけではなく、魚卵が苦手で、また、食事は量を少なく注文すると語った。中国では、「食べきれないほどたくさんの料理をありがとう」という気持ちを込めて、完食ではなく残す程度が礼儀とされているが、ジャッキー個人は違う価値観らしく、「最近の人はたくさん注文して残す。良くない」と述べた。
  • ファストフード系の中華料理店「ジャッキーズ・キッチン」を展開しており、トイレに行くとジャッキー自らトイレの作法についてレクチャーするというサービスがある。
  • 嫌いな食べ物はアサリ[10]

女性関係 編集

  • かつてジャッキー・チェンは若い頃、テレサ・テンと恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。その後、ジャッキーは台湾女優の林鳳嬌(ジョアン・リン)と結婚。テレサは1995年に気管支喘息の発作のため亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した[11]
  • 自伝『愛してポーポー』では、一時期ギャンブル中毒で身を持ち崩し、婚姻を解消したことを告白している。

収入・財産 編集

  • 慈善家でも知られており、幼少期にジャッキー自身が貧しくても「悪人とは付き合うな、麻薬には手を出すな」などの親の教えには感謝している。ある意味ブルース・リーとは違い長生き出来てる秘訣である。
  • 2005年12月29日付の台湾の通信社・中央社は、香港メディアの報道「台湾・香港著名人の2005年年収ランキング」によると推定2億3000万香港ドル(約30億円)であると伝えた。
  • 2006年、10億香港ドル(約150億円)と言われる全財産の半分を慈善事業に寄付するよう遺言を作成したと発表された。
  • 2011年4月、総資産260億円と言われる財産を家族には残さず、その全てを不幸な人の為に使う事を公言した[12][13]

三菱自動車との関係 編集

映画での三菱車の使用 編集

ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。 特に三菱・ランサー三菱・ミラージュ三菱・パジェロ三菱・ギャランが多い。

  • 『スパルタンX』(快餐車):デリカ(欧州名L300)ベースのハイテク移動販売車(劇中に三菱自動車のネオンサインも映る)が登場。改造は007のボンド・カーも手がけている所によるものらしい。他に劇中のカーチェイスに巻き込まれる一般車として老婆の運転するスタリオンがジャンプするシーンがあるが、ジャンプ後の老婆の台詞が車の宣伝文句ともとれるものとなっている。
  • ファースト・ミッション』:ミラージュ。九龍から香港島の市街地において香港警察のパジェロなどと派手なカーチェイスを展開する。ギャランΣも登場している。
  • サンダーアーム/龍兄虎弟』:ミラージュ・スパイダー(ミラージュベースのコンセプトカー)。敵組織のウェザリングが施された数台のパジェロとカーチェイスの末、爆破される。この車は、1984年のマカオグランプリの「ジャッキー・チェン・トロフィー」においてジャッキーが乗るペースカーとしてお披露目されたところ、ジャッキーに気に入られ、劇用車として使用されることになった。三菱は劇中のメイン車両としてガルウイングのオリジナル車、スタント・爆破用として簡略装備のスウィングドア車、緊急脱出シーン撮影のためのエンジンなし改造車の3台を提供したが、劇中ではスウィングドア車がメイン車両として起用されており(ガルウイングを開けるシーンもなし)、三菱の意図とは裏腹にガルウイングに豪華装備のオリジナル車が爆破されてしまった。これはスウィングドア車両が三菱に返却されたため判明したことであり、同車は現在も保存されているらしい。
  • 大福星』:新宿駅富士急ハイランド間をミニカでカーチェイス。リチャード・ン扮する念力の運転するデリカがマイクロバス(ローザ)に追突される。
  • プロテクター』:香港での捜査車両にパジェロ。港の麻薬工場への送迎車にデリカとトヨタ・ライトエース
  • 『ポリス・ストーリー/香港国際警察』:バラック街のカーチェイスでコルディア、犯人側の車にシャリオ(外国名:スペースワゴン)。麻薬王の秘書の車にギャランΣ。署長を人質にして逃げる時はミラージュ。この作品の後半ではホンダ・シビックを運転して派手な縦列駐車を決めている(この作品以外にもホンダや日産、マツダの車両が劇用車で登場している)。
  • ポリス・ストーリー2/九龍の眼』:ミラージュ。運転席のヒューズ線を使って爆弾解体。この他にギャランやシビックの覆面車も確認できる。
  • キャノンボール2』:ハイテク改造を施したスタリオンで出走(前作はスバル・レオーネ)。
  • プロジェクト・イーグル』:あらゆる改造が施されたパジェロが登場。この特別仕様車の外観は、初期のパリダカ仕様パジェロ、水陸両用可能な点はパジェロのコンセプトカーであるフォーリストラーダを髣髴とさせる。劇中冒頭で洋上に浮かぶこの車のルーフデッキで釣りをしているシーンがある。
  • ツイン・ドラゴン』:ラストの格闘シーンは三菱の自動車テスト場での設定になっている。他にもランサーやディアマンテが劇中に登場(4ドアセダンのランサーは日本ではミラージュの4ドア)。テスト場にはなぜか日産・ブルーバードがあった。ジャッキーが格闘するシーンでは最後に悪玉をギャランΣの衝突実験車に乗せ、そのままクラッシュさせた。衝突したスピードは時速300キロとされ、シートベルト非装着のため即死だった。なお、その前にターザンが同じ目に遭うが、はるかに低速であった上にシートベルトを装着していたため無事だった。
  • 新ポリス・ストーリー』:ミラージュと同じくギャランはジャッキー・チェンの作品に登場する。この作品はギャランΣのスタンダードクラスのGLでカーチェイスで大破。ランサーはジャッキーが汚れた服を、新しい服を着替えるためにリヤハッチゲートを開けて着替えのために行った。ランサーはミラージュの兄弟車にあたり、ジャッキー映画でも活躍する。
  • デッドヒート』:ランサーエボリューションIII、GTOでレースに出走。序盤のシーンで、トーステン・ニッケル扮するクーガーの駆る黒い日産・R32スカイラインGT-R三菱・FTOでチェイスしている。また三菱自動車の施設(三菱自動車・岡崎工場、現三菱ふそうトラック・バス喜連川テストコース)で研修を受けるシーンもある。その他のレース車はシビック、ギャランVR-4、マツダ・RX-7トヨタ・スープラBMW・3シリーズなどで、その多くがレース中に大破、爆破される。
  • ファイナル・プロジェクト』:パジェロ・FTO、最後のジャンプで船に突っ込む。
  • フー・アム・アイ?』:飛行機から墜落し、三菱の車でクロスカントリーラリーに参戦している日本人チームに出くわすことから物語が始まる。また南アフリカでBMWとのカーチェイスでランサーエボリューションが使われている。
  • 香港国際警察/NEW POLICE STORY』:犯人を追いかけていく過程にパジェロを使用。他にもランサーエボリューションなどが登場。
  • 『プロジェクトBB』:現金輸送車に牽引されていったベビーカーを追いかけるためにパジェロを借りる。乳児を狙うギャング団の車にグランディス。モク警部の捜査車両にランサー。大家の車はスバル・ドミンゴ
  • またハリウッド作品でも香港が舞台だった場合三菱車が登場していたこともある(例:「ラッシュアワー2」でジャッキー扮するリー警部の愛車がランサー(もしくはミラージュ)。
  • 『デッドヒート』のパンフレットで、レーシングドライバー中谷明彦は「本気でレーサーを目指したら強敵になるにちがいない」と語っている。

映画外での関係 編集

ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。

1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。

大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタックフェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。

2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている[14]

香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。

主な出演作品 編集

タイトルは日本語題・原題の順  ※は監督兼任

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
声の出演
ドキュメンタリー作品

CM 編集

脚注 編集

  1. 両親については、Charles and Lee-Lee Chan参照
  2. 野崎歓『香港映画の街角』青土社、2005年、310ページ
  3. 先輩であるサモ・ハン・キンポーの愛称は「大大哥」(タイタイコー/大大兄貴の意)であり先輩としての尊厳を損ねないよう差別化されている。さらに「哥哥」といえばレスリー・チャンの愛称である。
  4. 4.0 4.1 堀田眞三 (2006年7月30日). 千葉真一さんの職業病 (日本語). 俳優 堀田眞三(グランパ)です。. 2010年12月24日閲覧。
  5. ジャッキー・チェン、酔ってショーを台無しに?. cinematoday (2006年7月18日). 2007年4月12日閲覧。
  6. ジャッキーにスタントマンがいた!. スポーツニッポン (2007-4-6). 2007年4月12日閲覧。
  7. 五輪反対論は「不公平」=J・チェン氏、人権批判に反論-香港 時事通信 2008/04/14-06:19
  8. 成龙批台湾政治:太自由所以混乱 中国人需要被管-新闻中心 中华网 2009-04-20 07:47:14
  9. 「中国人は管理される必要ある」=J・チェンさんの発言が物議-香港 時事通信 2009/04/19-06:04
  10. とんねるずのとんねるずのみなさんのおかげでした・食わず嫌い王より
  11. 自伝“I AM JACKIE CHAN”の中で、テレサとの恋愛と別れ、亡くなった彼女に対する想いについて明かしている。なおテレサとのデュエット曲は、日本だけでなく中華圏でも大ヒットしたテレサの代表曲「時の流れに身をまかせ」の北京語版(「我只在乎你」)からテレサの歌声のみを抜き出し、ジャッキーのボーカルと合成して完成させたものである。
  12. 「全財産をチャリティー」宣言、息子への遺産ゼロ―香港 - 2011年4月3日、レコードチャイナ
  13. ジャッキー全財産を東日本大震災などに寄付 総額260億円 - 2011年4月4日、産経ニュース
  14. プレスリリース:MITSUBISHI MOTORS JAPAN 三菱自動車、中国におけるブランドキャラクターとしてジャッキー・チェン氏を起用 (2007年4月20日). 2007年8月25日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集

テンプレート:Commons

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